南米ブラジル 日本語教師 元研修生 OB/OG会 達磨会 森脇礼之 だるま塾塾長

ラジオ 「ブラジルを作る日本語」

「ブラジルを作る日本語」 ラジオブラジル日和 2006年アーカイブより

放送: 2006年7月8日(土)

出演: 森脇 礼之(れいし・島根県出身、71歳)、大久保純子、高橋 晃一(協力)

森脇先生はサンパウロで「だるま塾」と呼ばれる日本語学校を主宰している。今年、72歳になられるとは思えない肌の色艶、若さである。27歳で大学を終え、ブラジルへやって来た。その時すでに「忙しい日本では自分は付いていけない。自分のペースで生きたい」と思っていたという。

 実家が浄土宗のお寺であっただけに僧侶の資格もあるが、ブラジルへ来た当初こそは僧侶をしたが3年で辞めてしまう。その後、灯籠を作ったり、本来はわずか45日間の日本での日本語教師研修であったのに、そのまま1人、1年間も居残りってしまったりと、その人生は聴いていても飽きることなく楽しい。だが、楽しいだけではない1本の筋が通った人生でもある。

 「生涯教育者」というのは、こういう人をいうのかも知れない。タイトルの「ブラジルをつくる日本語」。正しく言えば、「ブラジルの歴史作りに参加する日本語教育」である。先生の日本語教育観は、まだわずか500年しかないブラジルで、その歴史作りに参加しているというのだ。また、生徒が知っている日本語の単語を調べたところ、何と家庭で習ったものが68%、学校ではわずか3割ぐらいという結果だったという。先生が今の日本の教育制度に鳴らす警鐘の意味は深い。

 あまりにも中身が濃く楽しい話だったので、ついつい時間を忘れて長いインタビューとなった。だが、このインタビューは非常に楽しく、また考えさせられる内容でもある。それが証拠にチャットで参加して下さった方々から今までに無いほど数々の質問が炸裂した。ぜひ、皆さんに聴いて頂きたい森脇式教育論である。なお、「だるま塾」という名前のいわれも放送の中で先生自身の口から説明してくれている。

森脇先生は誠に残念ながら、ガンのため、2015年6月18日(移民の日)に逝去されました。貴重な話を聞くことができました事を心より感謝いたします。享年81歳。合掌。

下記のリンクより、音声が視聴できます。

http://brasil-ya.com/radio/20060708.m3u

【自己紹介】 

昭和9年生まれ、もうすぐ72歳。昭和16年に開戦(当時)小学校1年生、小5で終戦。島根県出身。四人兄弟私は末っ子です。お寺で生まれ育った。私は坊主の子です。浄土宗。知恩院 京都本山の・・・いちおう坊主の端くれです。私がお経を読んでも地獄くらいしか人をやれないです。

27歳から72(当時)までずっと日本語を教えてらっしゃるんですね。

はい。だから、生徒は私の名前を知らない。「先生」としか、森脇という名前は生徒は知らない。私にとってのあだ名みたいなもの。ハハハハ。

 

ブラジルへ

先生何歳のときにブラジルにいらっしゃったんですか。

大正大学で仏教学を勉強して、卒業して、すぐ来ました。私はねえ、ずいぶんREPETEしてますから。27歳だったのかなあ。間際まで、もう一年のばさずに何とか卒業させてもらった。ということでしょうねえ。

日本では私のような人間はだめだなと思っていましたから。日本では脱落者だな。というような感じ。ブラジルに来たのも逃げ出したっていうような こんな日本になるなあというふうな、先々を考えたら自分にはとてもついていけないような世の中になるなあと思っていた。結果10年後に全くその通りだったんでね、ブラジルに来てよかったなあと。自分のペースで生きてみたいと思っていた。

どうしてそういう死生感?になったんでしょうか。誰の影響でしょうか。

影響というよりも・・・。いくらか父親の影響もあるでしょうね。親父が中国朝鮮韓国に布教のためによく行っていたのを見ていた。子供のときから見て知ってるもんだから。逃げ出した部分のあるが・・。外が見たいという意識もありますね。

はなからブラジルだったんですか。

いいえ。カナダの話があったんですけど、お寺で日本語をどうかという話があった。カナダのトロントだったんですが、日本と変わりない文明の社会に入るよりも、後進性のあるところで自分のペースで生きてみたいという。そういうことだけです。それでブラジル。

ブラジルにくる時、最初から長く住むつもりで?

ブラジルにくる時に日本側の責任者が一応契約しておこうと。「四年経ったら日本へ帰ってくる」という。私は契約嫌いですから、しません。気に入ったら死ぬまでいますし、気に入らなかったら飛び出すかもしれません。

渡伯後

最初はどちらにいらっしゃったんですか。

(サンパウロ市)LAPA(地区)のほうのお寺。名前は言わないほうがいいでしょう。そこで日本語を教えてくれという話があった。乞食であろうとなんでもいいから、やってみようと。稼ぎにきたわけではない。自分なりの生き方をしてみたいと思っていた。中には稼ぐという目的ではなかったですね。日本を抜け出して、自分なりの生き方をしてみたいというのが「独身もの」には多かったです。

そこの責任者との考え方が合わない。日本の延長の意識でいるもんですからね。何の意味で僕はブラジルへ来たのかなぁと。三年、石の上にも三年、その後で飛び出した。お世話になったけど辞めました。

私が勝手に出るんだからね、お金も何もないですから、無一文。(生徒の)父兄が家に来ないかと言ってくれて、居候したんですよ。お寺を飛び出して三年、3133歳の頃、灯篭を作りました。材料はセメントで、電気が点いて80センチ位あって庭に置けるようなものを作った。一番困ったのはね、六角形の勾配。高校の数学を思い出して計算してコンクリ、鉄筋を使って。材料の10倍で飛ぶように売れたんすよ。やったのは一年とちょっと。いつまでもやるつもりはなかったです。

 

【ノーバカショエリンニャ時代】

そうしたら、ノーバカショエリンニャ地区と言う、サンパウロ市内イミリン地区の近くの日本人会から来てくれと言われて。今度は私から条件をだしました。授業は月金。私がやろうということに一切口出ししない、口出ししたその日に私は止めますと。給料はまあ、殺さん(死なない)程度に最低月給一つ分、それでもよかったらと言って。それから14年日本人会で日本語を教えました。

日本語学校でエスポジサン(展示会)をやったんですよ。作品展をね。竹細工、木工細工、紙細工、石膏細工、金物細工、いろんな子供たちにあった工作というんですか。それを同時に作った後に必ず作文をかかせて。それを一緒に展示する。添削された文章ときちんと書き直した文章を二つならべて、作品と置いてあるんですよ。

とにかく私にとっては一番勉強させてもらったところです。日本語教育とはこういうものなんだなと勉強させてもらった。

 

【アニャンゲイラ日系クラブ時代】

14年目11月頃だったかなあ。アニャンゲイラ日系クラブ、会員が3000人もいるところへ移った。夢がありました。調査も兼ねていたんです。机から何から設計しました。48人位入れる教室に先生6人くらいにして。机を八角形にして、生徒8人、その中に先生が一人いる形。小さい子の机も上げ下げできるようにして、机の色もうすい緑とかクリーム色やうすい桃色。白板には磁気が使える鉄板を入れて。

教室で日本語学校も音楽を流して、軽音楽的な音楽を流して。高学年には静かな曲、小さな子にはリズムのある曲、成人には、中にはシルクロードもありました。私はこういう時代だからいいんじゃないかと。静かに流すんでね、決して勉強の妨げにはならない。生徒は気に入っちゃってね。「どちらがいい?」と聞いたら、流してもらったほうがいいと。日本の研修で、玉川学園の先生に話したら、「授業中に音楽を流すのはそれはあ・・」と言われた。 (ブラジルに)日本の定規を持ってきて、はかることはないんでね。

日本語学校ばかり新聞にでるんでね、妬みというか・・・。それでアニャンゲイラ日系クラブはクビになりました。父兄がコテンパンに理事を責めたてたりして、大変でした。私はさらっと出たんです。それで独立して、だるま塾。

 

【だるま塾日本語学校設立】

アニャンゲイラ日系クラブの隣の通りに一軒家があって、それを売りにだしていたんですよ。「買えんかなぁ?」と思っていたら、日本に「だるま会」のOBの一期の人が、ボーナス貰ってもあんまり使わずにあるから何とかしましょうと。彼が25,26歳のときですよ。二期生の金原さんは丁度リオデジャネイロの日本総領事館に勤めていた。それで彼からも何とかしますよと。そして、私の持っている金と合わせて、ポンッと買っちゃったんですよ。

その二人にお金は返してないですよ。だから、「だるま塾」は私のものだと思っていないですよ。いつまでも私がやれるわけないから。あとは、OBの一期の人二期の人が中心になって、あそこを潰して、どこかへ学校を移してもいいだろうし、新しい世代に入ったときにそうしてもらえればと僕は願っているんですよ。

「だるま塾」の由来

だるま塾の名前の由来をおしえてください。

カショエリンニャ日本語学校で教えていたときに、最低給料ひとつ貰ってたでしょ。その頃、胃を悪くしたんですよ、それで自分が駄目になったときに、これからは若手でないといけないという頭があった。若い人の場合には収入がなかったらいいのがこない。最低給料ひとつ働きにくる人間はいないだろうと。50年も日本人会の学校だったのをぶち破ろうと、学校を経営する日本人会の会長のところにいった。学校を残したかったら、あなた方の経営では無理だ、学校の経営を私に任せないかと相談した。

それでついでに、学校の名前も変えてくれないかと。 ひとつは「だるま」っていうのは世間的には七転び八起きでいいんですが、禅宗の達磨大師の禅、宇宙観、そういう思想は大事だと思って。

  

もともと日本語を教えるのはずっと勉強してきた・・・?

私はね、日本で日本語を教えたことはありません。日本ではそのために何も勉強してきていませんし。語学という意識では関心があったし。ちょっと英文をやっていましたのでね、学生のときに。英文学というのに突き当たっちゃて。ちょっとノイローゼ気味になって。もうすこしロマンチストなものを選べばよかったんですが、なかなかね。WordWordに魅力があって、引っかかって、その間に宗教性のものかあったりして、何だか分からなくなっちゃった。学校にいっても虚しいような感じがして。そして、やっぱり坊主の子だから仏教でもやってみようかというような感じで。

1972年か、71年かな。ブラジルに来て9年振りに初めて日本へ帰った。日本へ研修に行ったんです。今は事業団(JICA)や交流基金が金だして研修に行けますけど、当時は自費ですから。発声だったらNHKのアナウンサーなど、日本で専門家に教えてもらいました。

日本で45日研修だったが、二度と来られないと思って、そのまま残って。500ドル位しか持ってきていなかったから、乞食の生活をしました。ものすごく勉強しました。金子まごいち先生の講義聴講生大塚の教育大、半年通ったんですよ。玉川学園には23ヶ月。乞食の生活でしたけど実に充実していました。

帰る時もアメリカの日本語教育見てやれと思って、ロサンゼルスで1週間見学させてもらった。日本と比べて、厳しい。アメリカのほうが徹底しているなと思った。1年程してやっとブラジルに帰ったら、離婚して帰ってこんという噂が流れていました。

日本語を教える面白さとは?

おもしろいというよりもねえ、自分が一番充実している時間は「教えている時間」ですね。嫌なこともありますが、難しいこともありますが、教えている時間が一番充実している時間じゃないですか。教えるということは生徒から教えてもらうということですからねえ。いろんなことを勉強させてもらったです。

当時のブラジルでの日本語とは?

 戦前の日本語教育のね、いわゆる「勝ち組」じゃないですけど、まだそういう匂いをもった日本語教育、その延長がまだあったわけです。

1962年に先生がブラジルにいらっしゃったころ そういう雰囲気が残っていたんですね?

それはもうね。ほとんど、一世ですからね。父兄が。中には山登りをして、頂上に日の丸を立てて頑張ってたおやじさんも居る位だから。(自身が子供の頃、)歴史の教科書に墨を塗ったことはないですけど、戦前と戦後教育がガラッと教育が変わって子供ながらに大変でした。戦後18年経って(ブラジルに来た時)「天皇陛下の写真」や「教育勅語」を見て、ショックでした。まだまだ残っているんだな、という。

先生は外国語としての日本語教育に本来は力を入れたかった?

はい。日本語教育を新しく作り変えていこう。と言う意識が強かった。俺がやってやろう。自分なりにやってみようと。(国語としての日本語教育)これをいきなり否定してはいけないが、ある程度同調しながら、外国語としてやらなければいけないんだと。

ブラジルの日本語教育が何十年も続いていた中で、初めてだったんですけど、先生たちの意識が変わらない限りは発展しないといいうことでシンポジウムをやろうと。そうして1970年代に第一回のシンポジウムをやりました。文化協会の会長の植原さんに実行委員長をお願いして。そこへもっていくまでに、ものすごい抵抗がありましたけれど。 

ブラジルで日本語を勉強する人は多いんですか。 

今は12000人くらい、州立1718校くらいがあるんじゃないですか。

日本語は日系社会の日本語ではなくて、ブラジルの日本語なんです。継承というのはわかるが、特殊なコースを作って、継承語教育をしたらいい。カトリック文化をうけている子供たちが、王冠を「ハイ」と被るようなことはできない。継承ということは享け賜らなければならない。享け賜るだけの日本語の実力がないといけない、一般的には日本語ゼロの子供がそれをうけとることは難しい。やはり、ブラジルのための日本語教育。ブラジルのために国つくりのための日本語教育。 

森脇先生はどんな使命で日本語教育に携わっているんですか。

使命ですか、使命とかなんとかあんまり、窮屈に考えないですけどね。私は結論から言うとね、日本語教育がブラジルの歴史作りに参加すること。そうじゃないと日本語の意味がないと思うんです。伝承とかね、日本の精神を継承するとか別の次元のものであって、私は今の日本語教育がブラジルの日本語教育になっちゃった。 この国はいろんな民族が集まって創っている国で、色んな言語があって、それぞれがサラダボールじゃないですけども、ドイツ系はいいレタスになる、日系はいい玉ねぎになる、トマトでもいいですよ。それらが本当に美味しいトマト、レタスをつくって、あわせて美味しいサラダボールができる。腐ったトマトじゃいけない。そういう意味で、そこにはじめて、新しいブラジルが生まれるんじゃないですか。

歴史学者アーノルド・トインビー、数学者でもあるんですが、その人が日本へ来て講演したことがある。私が学生の頃神田の協立講堂でね、生で聴いた。それを聞いて早速、神田へ行って、本を買ったんすね。ゆっくり本を読み直してみて、歴史の見方を「千年を1」と考えると言う発想が書いてあった。それがものすごい頭にあった。

2000年の歴史を持っている日本で言ったら、「歴史作りに参加する」なんて何事かといわれるかもしれないが、ブラジルは歴史が浅い、500年の歴史。なんともブラジルは若い国なんだと。なるほど1になってない。まだまだ0.5で、つくりつつある過程であって。5001000年たたないと文化が生まれないっていうのがトインビーの考え。ですから、日本語教育があってもいい、ドイツ語教育があってもいい、英語教育があってもいい。あとの500年にね、日本語が参加する。500年の歴史作りに参加する。そういう一つの考えで、きています。

 

言葉というのはどういうことかというと、言葉は文化の運び屋っていうことがある。文化を運ぶ役目がある。言葉がひとつうまれるにおいては、背景があって、言葉が生まれるんであって。桜がひらひら散るから「ひらひらひら」という言葉がうまれてくるんでしょうし。その言葉が生まれてくる背景を私は文化と呼びたい。ひとつの言葉をつかむだけで、一つの文化を理解したと。 大きくまとめたそれが文化ではなくて、ひとつの言葉をつかんだ、それが文化なんだ。一歩一歩こう教えていくという感じ。

 

言葉というのは他の文化とは性質が違う。音楽や芸術文化もありますが、言葉の文化は、言語文化は性質が違う。役目がちがう。いろんな文化を支える。お皿。芸術文化であろうと食文化であろうと、それを支える、盛り付けされる。手のひら。いろんな文化を手のひらに乗せる。受け入れる力と同じ。言葉は手の平だ。日本の文化というものをしっかり持つためには、日本にいる日本人に日本語をしっかり覚えるべきだ。日本語を鍛えるべき。徹底して日本語を勉強するべきだ。

日本からの若者受け入れ、だるま塾研修制度開始

どうして日本から大学生が来ることになったんですか

研修生一期生となる吉田さんの先輩ですけども、東京外国語大学の黒川さんという人がいまして。ポルトガル語を勉強したいと、ある人の紹介で僕のところに来たんですよ。アニャンゲイラ日系クラブにいるころでした。彼が20何歳、大学三年のときでした。継続するんだったら引き受けてもいいと言いました。(翌年1984年に)一期の吉田さんが来て、金原がきて、続いてきたわけです。

もし先生がぽっくり逝っちゃったら、だるま塾はお終いになっちゃうんですか。

私がいつぽっくり逝くか分からないですけどね、いやぁまぁ、金原や皆んなが何かやるんじゃないですか。

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