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森脇先生を偲ぶ

東京での偲ぶ会に出席した「だるま塾」OBたち

【一部既報】胃がんのため6月18日にサンパウロ(聖)市内で亡くなった森脇礼之(れいし)さん(享年80歳)の四十九日法要が、8月2日午後3時から聖市リベルダーデ区の仏心寺(Rua São Joaquim, 285)で執り行われるに際し、各方面から同氏の死を悼む声が本紙に届いている。四十九日法要当日は、森脇さんが主宰した「だるま塾」の研修生OBをはじめ、日本語教師関係者たちが書いた追悼文及び寄せ書きが霊前に供えられる予定だ。 

森脇さんは1962年6月に渡伯し、71年の第1回ブラジル日本語教師研修以降、日本語教育研究責任者としてその普及に貢献。84年から日本の大学生を約1年間、日本語教師としてブラジルで研修させる「だるま塾」を主宰し、校長として現在まで20大学117人を受け入れた。 また、90年からは日本凧(たこ)製作普及にも努め、各地で児童を指導してきた。85~96年、日本語普及センター(現日本語センター)理事も務めた。 65年ごろに日本語普及会(現・日本語センター)に在籍していたサンパウロ人文科学研究所顧問の鈴木正威氏は、同時期に聖市カショエリンニャ日本語学校で教鞭を執っていた森脇さんに出会い、凧作り、餅つき、ピッコ・デ・ジャラグア登山など教室だけの授業にとどまらない同氏のユニークな指導ぶりに引かれたという。 鈴木氏は「そうした(森脇)先生の生きざまは、単なる型にはまった日本語教師ではなく、いわば全人教育者としてその真価を発揮したといってもいい」と強調する。 

南マット・グロッソ州ドウラードス・モデル校校長の城田志津子さんは、78年に聖市文協で行われた「全伯日本語教師合同研修会」で森脇氏と出会い、それをきっかけに森脇氏と「だるま塾」研修生がドウラードスの共栄移住地等を訪問、交流したことを振り返る。 また、森脇氏たちの尽力により地方教師のレベルが向上し、サンパウロの日語校生徒たちとの交流が実現したほか、日本語普及センター(現・日本語センター)の設立につながったことに感謝を表す。「森脇先生は異色の日本語教師であったと思います。僧籍を持ちながらお寺を飛び出し、ブラジルの子供たちに日本語を教え、落語やお神楽、凧作り、獅子舞などを子供たちと共に楽しみ、多くの研修生に囲まれて未来を語り共に飲みながら一生を終えられたのですから、これも先生のご人徳。なぜか良寛和尚に重なるお人でした」(城田さん) 

一方、「だるま塾」OBで聖市在住の金原正幸さん(50、埼玉)によると6月30日夜、東京都内で同OBら16人が集まり、森脇さんを偲ぶ会を開いたという。OBたちは飲食しながら生前の森脇さんのことを語り合い、会の最後に一人一人が亡き師へのメッセージを寄せ書きした。 現在、OBの中には商社代表やメーカーなど日本企業の駐在員としてブラジルに滞在している人もいるほか、だるま塾研修生がブラジルで教えた日本語学校生徒の中には東京工業大学で准教授として活動している人材もいるという。 また、現在のところは「だるま塾」を継ぐ人はいないそうだが、森脇さんの遺志を引き継いで117人にも及ぶOB同士の連絡を取り合っていく考えだ。 金原さんは森脇さんについて「ブラジルでの『親父』と言っても過言ではないくらい、お世話になりました。最初の1年間でブラジルを好きになれたのは、森脇先生に出会えたから。このことは我々OB全員の思いでもあります」と話していた。

2015年7月18日付 サンパウロ新聞より(http://saopauloshimbun.com/archives/43794)

 

森脇先生を偲ぶ=鈴木正威氏(サンパウロ人問研)

先生と初めて会ったのは、1965年の頃である。当時、日本語普及会に在籍していた私は、日本語教育実態調査の手始めてとして、市内の日本語学校を歴訪していた。そのひとつに先生が教鞭をとるカショエリンニャ校があり、そこを訪問して思わず目を剥いたのである。

 丁度作品発表会だったのか、校内には生徒の手作りの図工の作品が並べてあったが、それが実に多彩な上に工夫を凝らしていて、他の学校には見られないユニークなものだった。学校の庭園には花壇があってきれいな花々が咲いていたが、それはみな先生の指導によって生徒たちが育てあげたものというのである。改めて先生の型破りというか異色の指導ぶりに惹かれて訊いてみると、本来、お寺の出である先生は浄土宗の開教師として赴任したが、当地の総監と意見が合わずに飛び出して、教師になったということだった。

 それから先生との長い付きあいが始まったが、先生は単に教室の授業だけではなく、課外の情操や趣味の練磨にも本領を発揮した。凧を作らせて揚げること、獅子舞や笛吹きの指導から、年末には生徒とともに餅をつき、新年には雑煮を振舞ったり、恒例となったピッコデジャラグァの山登りをしたりと、枚挙にいとまがない。そうした先生の生きざまは、単なる型にはまった日本語教師ではなく、いわば全人教育者としてその真価を発揮したといってもいい。

 そのうち、『だるま塾』という自分の学校を経営するようになった先生は、期するところがあって、日本から、最初は東京外大の在学生を日本語教師として招聘することにした。日文連に頼んで呼び寄せ人になってもらい、みずからは保証人となって各地の日本語学校に送り込んだのである。その頃から日本語教師の不足やマンネリ化が懸念されていたコロニアでは、日本からこうした新しい時代の理念や雰囲気を身近に漂わせる若者たちは、日本語教育界に新風を吹き込み、世代交代の先駆けという大切な役割を果したはずである。

 先生はこのため私財を投げ打って、文字通りこの活動に精魂を傾けた。この制度はやがて他の大学生にも適用され、全員で117名までに達するようになり、その研修生のなかには先生の人徳を慕って卒業後もブラジルに職を求めてきた人たちもかなりいる。

 晩年の先生は人柄も枯れてきて、親しい友人たちの葬式には自ら読経をして霊を慰めたりもした。また、多忙な授業の合間に書いた論文『日本語教育の理念の歴史』は人文研の紀要に連載され、ポ語にも翻訳されて研究者必須の資料ともなっている。今ここに先生が逝去するにあたり、しみじみとその遺徳が偲ばれる。それは先生こそ市井にあって、慈悲という仏のこころを静かに実践した人ではないか、ということである。改めて先生の冥福をこころから祈りたい。

2015年7月21日 ニッケイ新聞 http://www.nikkeyshimbun.jp/2015/150721-praca-3.html

 

森脇礼之先生の思い出=ドウラードス日本語モデル校 校長 城田志津子

 森脇礼之先生のご逝去、心より哀悼の意を表します。

 日系社会の日本語教育を支え、未来に日本語を託し夢を紡いでいらした大先輩の諸先生方の訃報に接する度、1978年にサンパウロのブラジル日本文化協会(文協)で行われた全伯日本語教師合同研修会に参加し、そこで出会った沢山の先輩諸先生のことを思い出します。その先生方から、日本語教育を公然とできなかった戦中、戦後の体験や、日系子弟の世代交代により日本語離れしていく生徒に対する指導法に苦慮する現状など、いろいろ聞かせて頂いたのも教師研修会でした。森脇先生も、研修会で出会った先輩教師のお一人でした。それから37年の長いお付き合いとなりました。

 私が初めて全伯教師研修会に参加させて頂いた1978年、マットグロッソの田舎から鈍行バスに17時間揺られてサンジョアキン駅に着き、時間遅れを気にしながらブラジル日本文化協会(文協)の研修会会場に入ったとき、ちょうど森脇先生と渡辺次男先生がJICA派遣の第一回日本語教師本邦研修報告をしていらっしゃいました。

 お二人の報告を聞きながら教師のレベルの高さに驚き、自分の無学さに恥ずかしくなり、会場の隅で小さくなって座っていました。報告会が終わり、休憩時間になって森脇先生が笑顔で近づいてきて隣の先生に声をかけられました。それから私の方を見て声をかけて下さいました。私が聞かれるままにドウラードスの日本語学校の実情について緊張しながらお答えすると、「一度いってみたいなあ」というお言葉があり、「どうぞ、いらしてください」と即座にお答えしました。この会話が、共栄移住地を訪れる森脇先生や先生が創設された『だるま塾』研修生などを迎え、誰憚ることもなく大声で飲んで歌って、娯楽の少ない田舎の夜を賑わす、森脇先生と共栄移住地との長いお付き合いの始まりとなったのです。

 このような無礼講の雰囲気で日本語教育について話し合った結果、南マ州日伯文化連合会傘下の日本語学校の教師には、全伯研修参加のための旅費を連合会が宿泊費および滞在費を所属する日本語学校が負担をするようになりました。お蔭で多く教師が全伯研修に参加でき、教師のレベルの向上を図ることが出来ました。

 多くの教師が研修会に参加することにより奥地の事情も考慮され、83年、柳森優先生・森脇先生の推薦で2名の教師がJICA本邦研修及び日伯中央協会から研修参加することができました。奥地ドウラードスにも目を向けてくださったお蔭で、サンパウロの日本語学校と生徒同士の交流も実現しました。これらが契機となり、日本語教育に対する意見交換が活発となり、地域の人材育成の一貫として、学生寮建設真剣に考えるようになりました。そして計画案がまとまり、JICAの助成を得て実現することができました。

 学生寮が完成した頃、サンパウロでは日本語普及センター(ブラジル日本語センター)設立構想が浮上し、検討会が幾度も行われ、日文連(日伯文化連盟)と日学連(伯国日本語学校連合会)の合併が最良の方法だという意見が出ましたが、賛否両論でなかなか纏まりませんでした。

 最後には森脇先生や関係者の方と朝川甚三郎先生が日本語教育の未来に賭ける心を理解し合い、それぞれの伝統を尊重し譲り合い、穏便に合併することができたと伺っています。普及センター創立により、中南米研修や教師研修が充実し、日本語学校及び教師の連携がより緊密になったことは大変喜ばしい限りです。

 森脇先生の業績は日本からポルトガル語研修希望の学生を受け入れ、教師不足に悩む各地の日本語学校へ派遣し、日本語を教えながらブラジルの滞在費を賄なわせ、10か月の研修の中で国際感覚を身に付けさせる『だるま塾研修制度』を確立したことではないでしょうか。この制度は今年で33年を迎えました。その間ブラジル、パラグアイ両国の日本語学校の教師不足を解消し、小さな移住地の日本語学校を支えてきた彼ら117名の活動は、日系社会の発展に大きく寄与してきたのではないかと思います。 

 森脇先生は異色の日本語教師であったと思います。僧籍を持ちながらお寺を飛び出し、ブラジルの子供たちに日本語を教え、落語やお神楽、凧作り、獅子舞などを子供たちと共に楽しみ、多くの研修生に囲まれて未来を語り共に飲みながら一生を終えられたのですから、これも先生のご人徳。なぜか良寛和尚に重なるお人でした。

 先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。                        

 合掌

2015年7月21日 ニッケイ新聞 http://www.nikkeyshimbun.jp/2015/150721-praca-2.html

JICA日本語教師研修生サンパウロ地区OB会報「かけ橋」2016年24号

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