達磨会とは
達磨会は、「だるま塾」運営による研修制度でブラジル・パラグアイの日本語学校に派遣された元研修生とこれに賛同頂いている方々の活動の場です。主に研修制度の運営支援、元研修生間の交流、「達磨会」及び「だるま塾」の活動に関する情報発信を行っています。
主な活動
- ブラジルの日本語学校への研修生派遣制度支援
- 南米ブラジル・パラグアイでの日本語教師研修生OB/OG会の運営
- 達磨会活動情報の共有

発足当時の様子(達磨会 会誌 創刊号より)

「達磨会」設立の話が具体的に持ち上がったのは、(1989年)10月15日のことであった。ちょうど、吉田尚史氏(会長)がブラジル出張より帰国した直後であったので、「達磨会」の話題や現教修生の様子を聞こうと吉田氏を始め、私の他数名が集まった。
その席で今まで活動の中心で会った学生の大半が来春には卒業してしまうことと、来年度の教修生の中に2名の京都外国語大生が参加するのを見ればわかるとおり、従来のように(東京)外大の枠内のみの活動ではなくなってきていたことの両点から、今までの活動を後輩にひきつぎ、今後一層発展させていくには、研修を終え帰国したOBに、この研修に賛同した人々も加えた協力団体を作る必要があるという意見が出た。「思い立ったら吉日」とばかりに翌日から早速関係者に電話連絡で了承取りつけを開始。3週間後の11月3日に第一回総会を実施できたことは、まずます会長なすべりだしといえよう。
それにしても帰国教修生だけで12人、現教修員3人プラス来期教修員7人を合わせれば、総数22名。6年間でこれだけ仲間が増えたことは、数の上では驚くべき進歩だと思う。これからは、それに内容を伴わせ、人数を生かし、事を成すべきだと考える。ただその成否は、近年のプロやきゅうのごとく開幕ダッシュがその鍵を握っている。強力なバックアップ団体になるか単なる親睦団体になるかは、早い話、先日選出されたスタッフが卒業する来春までに確固たる土台ができるか、否かであろう。
平成元年12月8日発行
達磨会会誌 七転八起 創刊号 役員挨拶 副会長 金原正幸 より

「達磨会」発足へ だるま塾 塾長よりのメッセージ
達磨会発足。まずはおめでとうございます。先月(10月初旬)、吉田さんが研修生の時以来、6年ぶりの来伯。訪日の旅に会うのだけれど、ブラジルでの再会はまた格別なものでした。学生としての表情ではあったものが、社会人としての表情で来伯。時の流れをつくづくと感じました。
振り返ってみれば、わずか6年ではあるが、その年月に流れは人の流れであり、様々な表情を持った6年とうい歴史の流れであったように思えてなりません。
その中で小生、威勢のいい流れにしたいと思いつつも、つい単調になり、チエテ川のそれまでにはいかないが、流れが淀みがちになってしまい、ときにはそれさえも気付かず過ごす、その淀みの中でプカプカ。でも幸いなことに4月になると春の香りを背にいっぱいもった若者がその流れに飛び込んでくる。その新鮮な春の香りをかいではっと気づかせられる。淀みが流れへと。その様なことを感じながらの6年であった様に思います。このたびの達磨会結成は流れに大きな弾みを注ぎ込んだものとして受け取っています。さて、弾みというアクセントのはいった次の流れにどの様な響をもたせたがよいか、せせらぎか、豪快な流れか、これからの課題として取り組みたいと思っています。いずれにしろ流れに、作り出す歴史に表情をもたせたいものです。
平成2年2月18日発行
達磨会会誌 七転八起 だるま塾 塾長 森脇礼之
「達磨会」への参加と「だるま塾」研修制度再開について
今後の「達磨会」活動へ向けて
1984年度研修生 吉田尚史
当時、東京外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科3年生であった私は、日本で開催されたブラジル関係のイベントで、とある日系人と知り合いました。その後、彼はブラジルに帰国し、日本語学校で先生として日本語を教えていたようです。ある時、そんな彼から「サンパウロの日本語学校で日本語教師のアルバイトを1年間だけやらないか?」との話がありました。彼があるブラジル人女性サンバ歌手の約1年に及ぶ日本ツアーの通訳として来日する為、当時の勤務先である日本語学校を留守にしなければならず、その間の臨時代役講師が必要だったのです。それまで、ポルトガル語を専攻とする学生であったにもかかわらず、ブラジルいう国や日本語教育/日本語教師という職業に特に関心があった訳でも、ポルトガル語の成績が良かった訳でもありませんでしたが、何となく「やってみたい=ブラジルに行ってみたい」という単純な気紛れ/思い付きに近い感覚で、彼からの誘いを受けました。
私が行った先は、Anhanguera Nikkei Clube という日系人クラブ組織の中にある日本語学校で、そこで初めて校長先生である故・森脇礼之先生にお会いしました。(当時の森脇先生は未だ50歳になるかならないか、現在自分自身がその年齢を既に通過してしまっていることを考えると、時の流れの速さを感じずにはいられません。そして、その後30年間、親子二世代に渡ってお世話になるとは当時は想像もしていませんでした。) この当時「だるま塾」なるものは未だ存在しませんでした。1年間の研修も終わりに近づいた頃、森脇先生から「来年もあなたの後輩の方に来て貰いたい。誰か良い人を紹介してくれないか。」との話がありました。前述の日系人の友人氏は、通訳の仕事が終了した後も、日本で仕事を見付け、暫くは日本に住むことになり、日本語学校の仕事は誰か他の人が担う必要が生じたようでした。私は「2期生」(当時は更にその後約30年間も続くとは思いもしませんでしたし、当然何期生というような感覚/意識は全くありませんでした。) として、金原正幸氏を指名/紹介し、帰国の途に就きました。
私が帰国した後、暫く経って森脇先生から直筆の手紙を貰い、そこで初めて森脇先生が Anhanguera Nikkei Clube の日本語学校校長の職を辞されたこと (解雇) を知りました。その後の経緯詳細は、当時森脇先生と行動を共にしていた「2期生」の金原正幸氏及びその後に続いた後輩諸氏に譲りますが、Lapa 駅前に新たに日本語学校を設立、更に「だるま塾」を Rua Belchior Carneiro, Lapa に開き、その後2015年に森脇先生が故人となられるまで、我々OB/OGの心の拠り所として永く存在していました。以降毎年研修生を受け入れ続けて頂き、最盛期(1995年) には14名もの研修生がお世話になりました。いつのまにか研修生派遣「制度」なるものがあたかも私が渡伯した1984年からずっと続いているかのように理解されている方もあるかと思いますが、最初の経緯はこれまで述べてきた通りです。
残念ながら、このだるま研修「制度」を通じ、2012年迄29年連続で研修生を送り続けた後、研修生募集が途絶え、2013年には初めて研修生なしとなってしまいました。翌2014年には、どういう運命の巡り会わせか、誕生時から森脇先生にお世話になって来た私の長男が、現時点では最後の (そしてOB二世としては初の) だるま研修生としてお世話になりました。しかし、研修生募集は途絶えたままで、またその翌年の2015年には再び研修生なしとなり、遂に森脇先生も亡くなられ、直接薫陶を受ける研修生は以降誕生しないことになってしまいました。
このような事態を受けて、私個人としてはこれまで余り「制度」の存在を意識しては来ませんでしたが、故・森脇先生の「だるま会の活動は継続して欲しい」との遺言/遺志を継ぎ、OB/OG諸氏により、研修生派遣復活に向けての動きが昨年 (2015年) から始まりました。「制度」復活が実現しそれが継続・発展して行けるか、復活後の新しい「制度」がどういうものになるか、本当にだるま研修生を希望する若者が集まるか、不安/不明な点も多々あります。ただ、私自身の経験から、一人でも多くの若者に、普通では出来ないような体験を通じ、何かを掴み取り、Originality 溢れ、逞しく広い視野を持って貰いたいと思うし、それを実現する手段として、我々が何らかの枠組み (「制度」) を持ち、それを継続して行くことは価値があると思っています。近い将来、研修生派遣が再開され、その後絶えることなく続くことを願って止みません。
2016年1月6日
1984年度研修生 吉田尚史