1990年研修生 藤原正義

 1990年3月に初めてブラジルに行ってから既に四半世紀が過ぎました。だるま会での研修の1年、その後の2度サンパウロに駐在しましたが、今でも研修時代が懐かしく思い出されます。研修時代にはお金はなくても楽しく過ごすことを周りの人々から学びました。90年にブラジルに行ったことが、後の就職に大きな影響を与え、ブラジル駐在につながったのだと思います。

1990年はサルネイからコーロル政権に変わった年でハイパーインフレを抑えるために、預金や物価凍結といった政策がとられました。口座にお金はあるのが引き出せず、ブラジル通貨は信用できないのでドルに換えてタンス預金したり、支払も小切手の時代でした。通貨はクルザードノーボがクルゼイロに変わったばかりで、まだ0がたくさんついたままでスタンプだけ押されている紙幣も流通していました。 インターネットや携帯電話はもちろんなく、固定電話も多くの家にはついておらず、市内電話は街角の公衆電話(Orelhao)に電話用コイン(Ficha)をいれて電話をする時代でした。 

  私自身、だるま会での研修が初めての海外でしたが、成田空港からロサンゼルスまで大韓航空、そこから今はなきパンナム航空に乗り換えてマイアミ、リオ経由でガルーリョス空港に到着しました。 初めて飛行機の窓からみえたブラジルは赤茶けたていたのが印象的だったのを今でも覚えています。

 サンパウロに1週間程滞在し、研修地であるミナスジェライス州イタジュバに行きました。ミナスジェライス州南部に位置するイタジュバには連邦工科大学があり、大学関係の財団が運営する日本語クラスで日本語を教えるのがメインでした。他にも近くの町に一週間に一度日系人の子供たちに日本語を教えに行ったりしました。大学で2年間ポルトガル語を勉強してから行きましたが、ブラジルに行った当初は相手の言っていることが良くわからず、こちらの言いたいことも通じないことが多かったです。イタジュバでは先輩たちもお世話になったHelio君に助けてもらいながら生活していました、Helio君とはその後のサンパウロ駐在の際に何度か会い、いまでも時々連絡を取っています。 イタジュバでは、日系人の方は多くはありませんでしたが、日系人会に呼んでいただくなど、大変お世話になりました。

 イタジュバは田舎町で危険な町ではありませんでしたが、いくつか事件がありました。最初は自転車の車輪盗難、前任の方が置いて行ってくれた自転車があったのですがある時、車輪だけ盗まれました、お金もなかったのでその後は歩いて過ごしました。他にも、旅行中に、住んでいた家に泥棒が入ったり、洪水で荷物やパスポートが水没したり、大学職員のパーティーにタダで参加させてもらったら集団食中毒となり、病院に行ったら知り合いばかりといった事件もあり、思い起こせばいろいろなことがあった1年でした。

 サンパウロにはピッコデジャラグア遠足に参加や、凧作りで月によっては毎週末行ったりしていましたが、いつも帰りが夜だったので、だるま塾近くのバス停からバスと地下鉄を乗り継いで、ブレッセルのバスターミナル(当時ミナス南部向けのバスはブレッセルから出ていました)を出発するまでは、いつも緊張していました。

 冬休みには森脇先生以下で、だるま同期の松本さん、伊藤さんとともに南マトグロッソ ドラードスへバスで行き、城田先生のご長男の結婚式に出席させていただきました。大型農業機械を入れる倉庫を使っての盛大な会で、豪快なシュラスコに加え、その時初めてドラードの刺身を戴いたのを覚えています。その後、パンタナルを訪問、サンパウロに戻り、冬休み中は、だるま同期の松本さん、大塚さん、伊藤さんと4人で毎日凧作りに励みました。日本各地の凧を紹介する本を参考に色々つくりましたが、最初の中は、竹ひごの厚さ調整を誤り全然上がらない凧になりました。いくつも作るうちに、上がる凧ができるようになりました。1990年は、森脇先生を講師としてサンパウロ大学の凧作り講習会を開いたほか、ポルトアレグレでも凧作り講習会を開催しました。

 1年の研修を終え帰国したあとは、ブラジルでの経験を生かせるのではと思い、シュラスコレストランでのアルバイトをはじめました。そこには、ブラジルから料理人やミュージシャンが来ていました。アルバイト開始当初はブラジル人との間にはやや壁がありましたが、店が終わった後飲みに行ったり、一緒に買い物について行って通訳したりして、仲良くなるのにはあまり時間いりませんでした。就職するまで2年間アルバイトをつづけましたが、北はセアラ州から南は南大河州出身者までいたので、各地の訛りに慣れ、ポルトガル語力をアップするのに役立ちました。

 就職活動の際にはブラジルに事務所があり、駐在できる可能性のある会社を目指していました。縁あって今の会社に入社、ブラジル経験が生き2度サンパウロ駐在の機会に恵まれました。最初の駐在時、初めのころは妻と一緒に、土曜日にだるま塾で子供たちに日本を教えたりしましたが、そのころ教えていた子たちも今は大人で、ずいぶん時間が経ったのを感じます。2度目の駐在では(遠足にいったピッコデジャラグアを毎日見ながら)サンパウロ郊外にある倉庫会社に通勤していました。 周りに何もないので、お昼はご飯と豆(Arroz e Feijao)の毎日でしたが、イタジュバでの研修ですっかり慣れていたので全く苦になりませんでした。 今覚えば、だるま会での研修がなければ、お弁当生活にして従業員をよく知る機会を減らしていたかもしれません。

 現在は、海外旅行はもちろん、語学研修や留学も普通になっていますが、だるま会での研修は語学研修や留学では得られない貴重なものであったと思います。 私もあと数年で50歳になります、今はインターネットで世界中の情報が取れる時代ですが、現地に溶け込んで生活して得られるものは何事にも代えがたいものです。 これからの世代の皆さんにも、貴重な経験を積んでもらいたいと思っています。

2016年4月23日 1990年研修生 藤原正義

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